人が人生のいろいろな場面でどうしようか迷ったり、判断に困った時に、自分なりの行動を選択するにはいくつかの基準があるものです。その基準の最たるものは、その人の価値観です。
価値観とはさまざまな物や事に対して、何が自分にとって望ましい価値があるかどうかを判断する基準です。あるいはさまざまな自分の欲求の集大成のようなものだという考え方もあります。
いずれにしても、価値観とは自分にとって何が価値があり、また自分は何を求めているのかを判断する有力な手がかりになります。
価値観があいまいなままですと、物事を判断したり、何かを選択する時に、確たる判断基準を持たないので、思いつきで意思決定をしたり、適当に選択をしてしまうので、その決定や選択が思わしくない結果に終わったときには強い自己嫌悪感を持ってしまいがちです。また一貫性のない判断や意思決定をしてしまいがちです。
人の行動を律するもう一つの重要な要素が役割です。
人は社会的動物であると言われ、さまざまな「社会、組織、集団」に所属しながら生きています。また、その社会、組織、集団に所属する条件として、そこにおける役割を付与されます。これが時として社会、組織、集団における責任と義務という概念につながっていきます。
社会的生き物としての人間が判断をしたり選択をする時に、場合によっては、この役割意識によって行動を選択することがままあります。問題はこの役割意識の形成のさせ方です。
一般的に人は所属する集団から何らかの役割を期待されます。これを期待役割と言います。父親は父親としての役割期待に応えるための期待役割を持ち、課長は課長としての役割期待に応えるための期待役割を担っています。
組織に所属する人も、当然、人間として、先に述べた価値観を持っています。またその人が何らかの集団に所属していれば、その集団における期待役割を付与されています。つまり人の行動を律する2つの要素が同一人物の中に共存していることになります。
これが時としてその人の行動を分かりにくくする場合があります。一番良い例が企業不祥事等に見られる組織人の行動です。
どうしてあの人があんなことをしてしまったのだろうか、という話を良く聞きます。これはあの人ほどの人物ならばしっかりとした価値観を持ち、それに従って行動を選択したならば決してあのような行動をとらなかったのではないかという気持ちを表した言葉です。
しかし多くの組織人は自らの価値観よりも所属する集団からの役割期待に応えようとする傾向が強いのです。
このように考えると、まるで役割自体が諸悪の根源のように聞こえるかもしれませんが、それは役割の半分の側面しか見ていないからです。もう1つの役割は獲得役割と言います。
これは人が自らの主体性において、その集団の中で能動的に獲得していく役割です。誰かから付与されるようなものではありません。この場合には、自分の意思が根底にあり、それに従った時に、自分はこの集団の中でこのような役割を果たさなければならない、あるいは是非果たしたいと考えた結果が獲得役割を獲得するという行動を喚起するものと思われます。
このように人の行動を律する要素を3つの側面から捉えるならば、読者の今後のキャリア上の選択は、まず自らの価値観を明確にし、どのようなキャリアが自分にとって価値があるかを考えることがまずベースになるということです。その上で親や教師、あるいは上司からの役割期待を考えなければ、主体的、能動的な行動の選択は出来ません。また集団の中では獲得役割もあるのだということをよく理解し、集団の中での行動を変えられるようでなければ、同じく主体的、能動的な行動の選択は出来ません。このことを今一度しっかりと考えてみてください。