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なぜ農機具メーカーに就職したのですか?
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田口:まったく主体性のない話なんですが、大学の教授に勧められて、素直にその会社に就職しました(笑)。当時は就職難の時代で、東京の会社も受けましたが、試験で落ちてしまったのです
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―――その会社ではどんな仕事をなさったのですか |
田口:全国の販売店や農協相手に、農機具を売り込んだり、代金を回収する営業でした。私は酒が飲めないのですが、営業に行くと昼間でも「俺の酒を飲め。飲んだら買ってやる!」と勧められることも多く、とても困りました(笑)。私はそういう泥臭い営業が苦手でした。 |
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その頃スキルアップのために、心がけていたことを教えてください。 |
田口:当時の日記には「これじゃダメだ!」とか「時間を無駄にするな!」など、自分を叱咤激励する文章が書かれていました。遊んでいると時代に置いていかれてしまうような危機感があったようです。ダイエーの故・中内功氏が唱えた「流通革命論」や日本に上陸したばかりのドラッカーの経営論を熱心に勉強していました。 |
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その後、三住商事(現ミスミ)に転職したのはなぜですか?
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田口:昔からの友人に「自動水洗機の販社を設立するから融資してくれ」と頼まれ、20万円ほど(現在の価値で200万円以上)貸したんです。ところが、貸したお金が全然返ってこない。心配になってその友人に会ってみることにしました。すると、「事業が上手くいかず返済できない」と言うんです。「返してもらえないのなら、自分でその事業を成功させるしかない」と考え、入社しました。結局ミイラ取りがミイラになる格好となりました(笑)。農機具メーカーに将来性を感じなかったこと、東京で仕事をしたいというのも理由の1つです。 |
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状況が悪いのを覚悟の上での転職だったんですね。
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田口:自分のお金もかかってましたから(笑)。最初は給料すら払ってもらえず、半年ぐらい失業保険で食べていました。自動水洗機の営業には本当に苦労しました。確かに画期的な製品でしたが、不良品が多くクレームが続出。とても営業どころではありません。結局、自動水洗機の販売はあきらめ、仲間の1人の専門分野だったベアリングの販売に切り替えました。ところが、単にベアリングを売ろうとしても、ライバルが多く簡単には買ってもらえません。私も工場に飛び込み営業を仕掛けましたが、相変わらず人付き合いが苦手で、なかなか売り込めませんでした。 |
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その苦境をいかに乗り越えたのでしょう?
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田口:ある日お客さんから「ベアリングではなく、その中の部品だけを売ってほしい」と言われました。営業力のある営業であれば、そんな面倒なオーダーは断ったはず。しかし私は、それに応えるしかなかった(笑)。話を持ち帰って調べると、その部品は日本には存在しないというんです。そうであれば、作って売ろうということになり、売り始めると結構ニーズがありました。このとき、お客様のニーズを聞き、製品化するという「マーケットアウト」の原型ができました。話を聞きつけた別の工場からも、「こういう部品を作ってほしい」といった要望が多く寄せられるようになり、ミスミを東証1部企業に成長させる大きなビジネスに育ちました。ドラッカーの著書に『経営とは需要の創造である』という言葉があります。それを意識していた結果だったかもしれません。 |