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転職サイトPROSEEK > 転職コラム > 仕事のモチベーション > vol.15 田口弘氏 (株式会社エムアウト)
プロフィール

1937年岐阜県生まれ。59年愛知学院大学商学部卒業後、大竹農機(現大竹製作所)入社。63年三住商事(現ミスミ)設立に参画。69年同社社長就任。94年東証2部上場、98年東証1部上場を果たす。「購買代理店」「マーケットアウト」など斬新な経営コンセプトを打ち出し、ミスミを年商550億円の商社に育てた。2002年、起業専業企業エムアウト設立、代表取締役社長就任。著書に『隠すな!』などがある。
<会社概要>
起業専業企業「エムアウト」は、経営者人材を目指す志の高い人と共に、「マーケットアウトビジネス」の実践に挑戦している。マーケットアウトとは、顧客のニーズを起点として、市場からビジネスをつくりあげていく手法。創業者田口弘氏が提唱してきた独自のコンセプトである。“参画者”を募り経営者を育てるという、斬新なビジネスモデルを提唱している。
不透明な絵画ビジネスの問題点を解消するファインアーツ事業部。「@GALLERY TAGBORT」では、現代アートのインターネット販売を展開中。
新感覚ジュエリーリフォーム専門店「ADCT」。多くのジュエリーが使われていない事実に着目、宝石箱に眠っていたマーケットを掘り起こしている。

――― なぜ農機具メーカーに就職したのですか?
田口:まったく主体性のない話なんですが、大学の教授に勧められて、素直にその会社に就職しました(笑)。当時は就職難の時代で、東京の会社も受けましたが、試験で落ちてしまったのです 。
―――その会社ではどんな仕事をなさったのですか
田口:全国の販売店や農協相手に、農機具を売り込んだり、代金を回収する営業でした。私は酒が飲めないのですが、営業に行くと昼間でも「俺の酒を飲め。飲んだら買ってやる!」と勧められることも多く、とても困りました(笑)。私はそういう泥臭い営業が苦手でした。
――― その頃スキルアップのために、心がけていたことを教えてください。
田口:当時の日記には「これじゃダメだ!」とか「時間を無駄にするな!」など、自分を叱咤激励する文章が書かれていました。遊んでいると時代に置いていかれてしまうような危機感があったようです。ダイエーの故・中内功氏が唱えた「流通革命論」や日本に上陸したばかりのドラッカーの経営論を熱心に勉強していました。
――― その後、三住商事(現ミスミ)に転職したのはなぜですか?
田口:昔からの友人に「自動水洗機の販社を設立するから融資してくれ」と頼まれ、20万円ほど(現在の価値で200万円以上)貸したんです。ところが、貸したお金が全然返ってこない。心配になってその友人に会ってみることにしました。すると、「事業が上手くいかず返済できない」と言うんです。「返してもらえないのなら、自分でその事業を成功させるしかない」と考え、入社しました。結局ミイラ取りがミイラになる格好となりました(笑)。農機具メーカーに将来性を感じなかったこと、東京で仕事をしたいというのも理由の1つです。
――― 状況が悪いのを覚悟の上での転職だったんですね。
田口:自分のお金もかかってましたから(笑)。最初は給料すら払ってもらえず、半年ぐらい失業保険で食べていました。自動水洗機の営業には本当に苦労しました。確かに画期的な製品でしたが、不良品が多くクレームが続出。とても営業どころではありません。結局、自動水洗機の販売はあきらめ、仲間の1人の専門分野だったベアリングの販売に切り替えました。ところが、単にベアリングを売ろうとしても、ライバルが多く簡単には買ってもらえません。私も工場に飛び込み営業を仕掛けましたが、相変わらず人付き合いが苦手で、なかなか売り込めませんでした。
――― その苦境をいかに乗り越えたのでしょう?
田口:ある日お客さんから「ベアリングではなく、その中の部品だけを売ってほしい」と言われました。営業力のある営業であれば、そんな面倒なオーダーは断ったはず。しかし私は、それに応えるしかなかった(笑)。話を持ち帰って調べると、その部品は日本には存在しないというんです。そうであれば、作って売ろうということになり、売り始めると結構ニーズがありました。このとき、お客様のニーズを聞き、製品化するという「マーケットアウト」の原型ができました。話を聞きつけた別の工場からも、「こういう部品を作ってほしい」といった要望が多く寄せられるようになり、ミスミを東証1部企業に成長させる大きなビジネスに育ちました。ドラッカーの著書に『経営とは需要の創造である』という言葉があります。それを意識していた結果だったかもしれません。
――― その後、32歳で社長に就任しました。
田口:私の場合、成り行きで引き受けただけで、最近の起業家のように「いつか金持ちになってやろう」なんて、まったく考えていませんでした。その頃、社長というと、田中角栄のような親分肌が主流でしたから、私は社長らしくない社長で、周囲から「学校の先生みたい」と言われていたほど(笑)。大声で部下を指導するタイプでもありませんでしたから、私は経営理論を徹底的に追及することで、明確なロジックで組織を動かす独自のスタイルを確立しました。ドラッカーなどを研究し、徹底的に顧客視点に立ち事業を行ってきました。その結果として「マーケットアウト」といったビジネス手法を生み出しました。
私は普通の社長とは逆で、いかに社内で自分の存在を消せるかを課題にしていました。経営者セミナーに行ったときなどは、ほかの社長は休憩時間になると会社と電話連絡しているのに、私には一切電話が掛かってきませんでした(笑)。

社長が1番働く会社も多いようですが、私はそうしたハードワーカーでもありません。ミスミ時代も夕方になれば会社を出ていましたし、土日は基本的にオフです。働く時間や場所より、問題意識の持ち方が大切。常にマネジメントについて考えていれば、テレビ番組1つ見ていても見方がまったく異なるものです。自分にとってはくだらない番組でも、それが視聴率トップだというなら、なぜトップなのか考えることもできる。私はよく「森を見ろ」とアドバイスしています。現状から少し離れた位置から考えることも大切だと思います。
――― 転職経験のある田口社長から、転職を意識している読者にアドバイスを頂けませんか?
田口:年功序列が崩壊し、今や「転職の時代」。積極的に動くべきだと思います。時代のスピードが速まった結果、企業も人も常に動かねばなりません。かつては人の出入りが少ない会社がいい会社とされましたが、今はその逆。人の動きが世の中によい循環をもたらすのです。ただし転職は大いに結構ですが、その前に現在の職場で何か1つ結果を残す必要があります。結果を残しながらステップアップしてゆけば、転職は企業と人、双方にメリットがあることだと思います。
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